益子焼と民藝

益子焼の歴史

益子焼のはじまり

益子焼は栃木県益子町を中心に生産される陶器です。

益子焼の陶祖とされる大塚啓三郎が江戸時代末期に益子に窯を開窯したことから陶業が発展し、1979年には国の伝統的工芸品に指定されています。

大塚啓三郎は益子の隣町である茂木町に生まれ、少年時代には茨城県笠間市箱田に住み込みで寺子屋教育を受けます。その時代、既に笠間では陶業が行われており、そこで啓三郎は窯の経営を学ぶ傍ら、製作技術や焼成を学んだと言われています。

その後、益子の大塚平兵衛の婿養子として益子へ移住し、農業に従事します。益子で生活をする中で、益子の大津沢の土が製陶に適していることを発見し、試行錯誤の末、自宅の庭の丘に窯を築きました。しかし、当初は火災の危険などの理由で役所から窯の使用を禁止されてしまいます。 江戸時代の益子は黒羽藩の領地であり、黒羽藩益子役所は火災の危険の少ない根小屋(ねごや)に築窯を許可し、奨励をしました。これが益子焼の始まりと言われています。

益子焼の発展

益子で出土した最も古い焼物は縄文土器です。
その他にも奈良時代末期から平安時代の頃とされる窯跡の遺跡が発見されるなど、大塚啓三郎が益子焼を開窯する以前から、益子の地には陶器製造の文化が根づいていたとも考えられています。
大塚啓三郎の開窯が益子焼の始まりとされる理由は、啓三郎の窯が黒羽藩御用窯の第一号であったことにあります。益子焼は外貨獲得のための黒羽藩の専売品として、黒羽藩の管理下に置かれました。
この時代に焼かれた製品は主に瓶、すり鉢、壺、片口、徳利、皿、行平鍋などの日用品、台所用品でした。窯から出た製品は黒羽藩益子陣屋(代官所)に納められ、ワラで梱包され鬼怒川まで馬車で運ばれます。そこから船便で江戸の市場へ運ばれました。
このように益子焼は黒羽藩の資金援助と保護により徐々に生産が増えていきます。

明治初期(1870年代)には窯元は20件に達しましたが、そのほとんどが農業を傍らに陶業を営む窯元でした。1890年代には陶業の景気の安定化に伴い、窯元が増加していきます。この頃から海外への輸出も始まり、特にアメリカへの輸出は輸出全体の3分の1を占めるようになりましたが、生産増加に伴いう粗製乱造により信頼を失っていき、輸出は途絶えたと言われています。
また、アメリカでは陶器特有の貫入や吸水性のある生地は傷物として扱われたことも原因とされています。

1903年には益子陶器同業組合が設立され、愛知県から陶工の技術者を招き、益子陶器伝習所が開所され、益子焼の生産は増大していきます。 大正時代に入ると、東京では木炭から都市ガスへの転換が起こり、これまで日用の台所用品として使用されてきた、益子焼はガスの高温に耐えきれないことから割れてしまい、金属製の鍋などに取って代わられます。
また、漉し味噌の普及によりすり鉢が使われなくなり、ガラス製品も普及したことで益子焼の生産が減少していきます。
1920年には8月から1ヶ月製造を停止した記録が残っているほど益子焼の生産は滞っていきました。
そんな中、1923年9月1日に発生した関東大震災が益子焼の生産に思わぬ好況をもたらします。震災によって台所用品を失った人たちが益子焼を買い求めたために、需要が急増しました。

濱田庄司の来訪から美術品としての益子焼

1924年にイギリスから帰国した濱田庄司が益子にやってきます。

当時の益子焼は台所用品が生産の主流であり、製品を流通させる問屋が窯元に資本を貸し与え、窯元が自由に焼き物を生産できる環境ではありませんでした。

問屋のおかげで、在庫の管理、販売などを窯元が行わず、作ることに専念する事ができた利点もありました。このような構造が益子に定着していたことから、保守的な問屋は台所用品ではない工芸品をつくろうとする濱田庄司を異端者扱いし、濱田に学ぼうとする窯元と取引を行わないなど圧力もありました。

益子に住み着いた濱田は2度転居し、結婚し、徐々に益子にとけ込み、1930年に近村の農家を移築して住居と窯を築きました。益子焼の陶芸作家第一号の誕生です。

時が経ち、濱田に学ぶ陶工が増え、益子焼は少しずつ形を変えていきます。

1928年には生産の約半分が工芸品になり、濱田庄司によって「益子焼が台所から床の間へ出世した」といわれるようになります。

1929年に世界恐慌の影響で益子焼は深刻な不況に陥ります。工芸品の需要が下がり、実用的な飲食器の生産が中心となります。また、太平洋戦争により金属製品が供出され、其の代用として益子焼の需要が高まっていきます。また、戦時中の農業振興に協力するために、水田整備に必要な土管なども益子で作られました。

益子では戦時中も窯の火を消すことなく、生産を続け、1960年代以降には世界に名前が知られるようになります。

1955年に濱田庄司が人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定され、益子の認知が変わっていきます。

国内外の著名人が濱田庄司の作品に魅せられ、訪ねてくるようになり、イギリス、フランス、アメリカなどで展覧会を開催したことで、濱田庄司と益子が世界に知られるようになります。

1966年には「益子焼窯元共販センター」が設立し、益子陶器市が開催されます。民藝ブームと相まって益子に訪れる人が多くなり、徐々に産地から観光地としての側面を持つようになります。

1977年に濱田庄司邸の一部を改装し、「濱田庄司記念益子参考館」が開館します。濱田庄司が生涯で蒐集した工芸品が現在も展示されています。

1993年「益子陶芸美術館 陶芸メッセ・益子」が開館。1996年には島岡達三が人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されます。

益子焼の歴史は約170年と瀬戸や信楽、有田など他の窯業の産地と比べて歴史が浅い産地ですが、他の産地に比べて江戸に近いという立地的な環境から、特殊な窯業の発展、文化の振興が進みます。

藩の御用窯から民窯、日用品から美術品と時代の中で益子焼が変化したことで、益子は他の産地とは異なる独特な文化があります。

現在は約350の窯を要する日本の窯業の一大産地となり、伝統的な益子焼や作風豊かな陶器が愉しまれています。

民藝について

民藝とは

『民藝』は大正末期に柳宗悦氏・河井寛治郎氏・濱田庄司氏らが唱えた「民衆的工藝」からの造語です。

華美な装飾を施した観賞用の作品が主流だった1920年代の工芸界で、名も無き職人の手から生み出された日常生活の道具を「民藝」と名付け、「美」は日々の生活の中にあると語りました。

民藝の普及

昭和初期に民藝運動を普及するために日本民藝協会を設立し、東京・駒場に「日本民藝館」を開館しました。日本民藝館の初代館長には、「民藝の父」と呼ばれる柳宗悦氏、2代目は濱田庄司氏が務めました。

その後、全国に「民藝館」が開館し、民藝という思想が普及していきました。

栃木県民藝協会は、民芸運動の振興を目的として濱田庄司・佐久間藤太郎・塚田泰三郎・加藤英二等が中心となり1943年日本民藝協会栃木県支部として発足しました。1953年に栃木県民藝協会と改正し、全国大会を3回、夏期学校を5回開催しています。現在は、講演会、研修会等を年に数回開催しています。会員の半数近くが益子町周辺で活動しているつくり手であり、つくり手と触れ合う機会が多いことが当会の特徴であり、1999年より「有限会社 陶庫」が事務局を務めています。

濱田庄司の精神の伝道者・合田好道

合田好道とは

合田好道氏は1910年に香川県三豊郡豊濱町(現・観音寺市)に生まれ、幼少期は一時朝鮮に移住していました。

1929年に画家を志望し上京し、小山富士夫氏、鳥海青児氏、料治熊太氏と知り合い、国内有数の歴史と伝統を誇る美術団体である春陽会に入選します。

上京後は古美術に触れ、1942年には友人であった伊藤安兵衛と喫茶を兼ねた工藝店「門」を始め、濱田庄司氏、富本憲吉氏、北大路魯山人氏の作品を陳列していました。

1946年に濱田庄司をたよりに益子に移住。成井窯をはじめとした多くの益子の窯元の指導にあたり、多くの陶芸家志望者に陶器の知識や民藝の考えを植え付けました。

1974年には和田安雄氏を伴い韓国に移住の後、金海窯を開き、現代の韓国の窯業産業の基礎を築きました。

1980年には益子に戻り「合田陶器研究所」を主宰し、益子の多くの陶芸家に影響を与えました。

人間国宝である島岡達三氏は「濱田先生を近代益子焼の中興の祖とすれば、合田さんはそのもっとも忠実な伝道者といえよう」と評しています。

表現者として陶器だけでなく、絵画や書など様々な作品を残した合田好道氏、益子の歴史を語る上で欠かすことのできない存在です。

合田好道記念室

陶庫では合田好道の作品や思想を後世へ伝えることを目的として「合田好道記念室」を運営しております。

益子の歴史に多大な功績を残した合田好道の世界をお愉しみください。