益子焼と民藝

益子焼と益子町の発展

益子町は、江戸時代末期より、鉢、水瓶、土瓶などの日用の道具を作り、東京に近く鬼怒川で荷物を運べることから、焼き物の産地として発展してきました。1924年濱田庄司氏が移住し、『用の美』に着目した柳宗悦氏らと共に民藝運動を進めるかたわら、地元の陶工たちに大きな影響を与え『芸術品』としての側面を持つようになります。現在では、350もの窯がある一大産地となり、多種多様な作風の益子焼がお客様を楽しませています。

民藝協会について

『民藝』は大正末期に柳宗悦氏・河井寛治郎氏・濱田庄司氏らが唱えた「民衆的工藝」からの造語です。昭和初期に民藝運動を普及するために日本民藝協会を設立し、東京 駒場に「日本民藝館」を開館しました。栃木県民藝協会は1943年に「日本民藝協会栃木県支部」として発足し、シンポジウムや展示会等を開催。1999年より「有限会社 陶庫」が事務局を務めています。

合田好道(ごうだよしみち)について

合田好道氏は、1910年香川県に生まれ幼少期は一時朝鮮に移住していました。19歳で上京して、小山富士夫氏、鳥海青児氏、料治熊太氏と知り合い、春陽会に入選します。
戦中には喫茶をかねた工藝店をはじめ、濱田庄司氏、富本憲吉氏、北大路魯山人氏の作品を陳列し、戦後は濱田庄司氏をたより益子に移住して、成井窯をはじめとした多くの窯を指導しました。

1974年64歳の時に和田安雄氏を伴い韓国に移住ののち、金海窯を開き、現代の韓国の窯業産業の基礎を築きました。
70歳で益子に戻り「合田陶器研究所」を主宰して、益子の多くの陶芸家に影響を与えています。
島岡達三氏は「濱田先生を近代益子焼の中興の祖とすれば、合田さんはそのもっとも忠実な伝道者といえよう」と評しています。