陶庫50年の歩み

1898 →

陶庫が誕生するまで

1898年7月15日、栃木県益子町に「塚本菊次郎商店」が呉服店として開業しました。

創業者は、塚本菊次郎。益子の窯元「株式会社つかもと」の創業者・塚本利平の次男です。
創業当初は現在の城内坂ではなく、益子町内町地区に分家しました。

大正時代の末期、現在の益子町城内坂に移転し、肥料商「塚本肥料店」へと業態を転換しました。

また、益子北部の芦沼石が採掘される山を所有していかことから、肥料商を営む傍ら、芦沼石販売を開始。
芦沼石は益子焼の釉薬「柿釉」の原料として使用することから、益子だけでなく、全国の焼き物産地に供給していました。
芦沼石は保温性が高く、水分が浸透しにくい特性から、屋根瓦の材料としても需要がありました。
特に東北地方での需要が高く、数は少ないながらも、現在も柿の屋根瓦を使用した家屋の景色が残っています。

このように、陶庫の前身である塚本菊次郎商店と塚本肥料店は、益子の農業と窯業に関わりを持ってきました。
塚本菊次郎商店/塚本肥料店は陶庫が誕生する1974年頃までの約80年間営業を行いました。

1974 →

陶庫の誕生

塚本肥料店は農業の衰退、減反政策*等により米蔵として使用していた大谷石蔵の利用頻度が低くなり、その用途を模索していました。

1974年10月8日、有限会社塚本製陶所(現 株式会社つかもと)の協力を得て、塚本肥料店は大谷石の米蔵を改装し、益子焼の販売店として新たなスタートを切りました。
創業初は「陶庫」という名前ではなく、「城内つかもと」の店舗名で営業を行いました。

3代目当主であった塚本央の同級生である陶芸家の「関澤武」さんの発想から創業の翌年に「陶庫」という店名に変えます。

*減反政策:1970年代、日本政府は米の生産調整を目的に「減反政策」を実施し、多くの農家が米作りから他の作物への転換を余儀なくされた。これにより、米蔵の活用方法を見直す動きも見られた。

1960~70年代の民藝ブームにより、陶庫が店舗を構える城内坂は観光地として発展していきます。

1966年から益子共販センターで始まった益子陶器市を中心に多くの観光客が益子に訪れるようになりました。
この民藝ブームや益子陶器市をきっかけに城内坂が次第に観光地として発展していきます。

陶庫のオープン当初はマッチ箱などをノベルティとしてお客様に差し上げていました。

現在の陶庫でも使用している蔵のデザインはオープン当初に陶芸家の「藤永敦」さんがデザインしたものです。ノベルティから包装紙、ショッパーなどに使用していました。

1995 →

リニューアルオープン

陶庫が店舗を構える城内坂の都市計伴い、1995年4月22日にリニューアルオープンを行いました。
大谷石の蔵や家屋など、肥料商時代の建物を活かしつつ、展示販売を行うギャラリースペースを増設し、現在の姿に変わります。

建築、設計は3代目当主の塚本央の旧制高校の同級生が2代目を務めた佐藤秀工務店に依頼をします。
当時の佐藤秀工務店は特に木造建築に長けており、栃木県では日光プリンスホテルに次ぐ、2施設目のプロジェクトとなりました。

益子及び土地の文化背景の調査から始まったプロジェクトは約2年をかけて行いました。

現在の店舗の多くのエリアは元々敷地内にあった別々の建物を一つに集結させています。
和室は元々現在の駐車場の位置にありましたが、解体を行わずに建物を移動させる曳家(ひきや)の技法で約15mほど移動を行いました。
重機で2階建ての建物を持ち上げ、丸太などを用いて少しずつ移動を行いました。
石蔵及び現在の合田好道記念室の建物は石蔵を一度解体し、同じ石の位置で組み直しています。

また、リニューアルオープンに伴い、陶庫は旧肥料店舗、旧住居、旧陶器店舗などを集結し、統合しました。これにより、ギャラリー「蔵人」「Art Space Jonaisaka」「アトリエ」も一体となり、総面積約240の店舗となりました。

竣工した1995年に陶庫の建物は「栃木県マロニエ建築賞」を受賞し、その建築美を評価いただきました。

1995 →

陶庫の建物

陶庫位置する城内坂は名前の通り坂となっているため、陶庫の建物は坂に沿うように階段を上がっていく店舗となっています。

陶庫の内装は「木」「石」「鉄」というマテリアルをテーマにそれぞれのエリアが設計されています。
エントランスと和室は木造建築と木の什器を中心としたエリア、その奥に石蔵、鉄の什器を中心とした現在のM-styleギャラリーが広がります。

エントランスの木造梁は江戸時代の木造建築を所有していた益子町の農家が同時期に解体を行うということで、梁を譲り受け、移築前と同じ組み方で設計をしています。
石のエリアである石蔵は米蔵の大谷石石像を移築。
その奥に鉄の什器を中心とした鉄のエリアが広がっています。

■石蔵

陶庫の石蔵ギャラリーは元々は塚本肥料店の米の貯蔵蔵として使用されていました。現在では少なくなりつつある、手彫りの大谷石で組み上げられています。
リニューアルオープンをテーマとした前投稿でご紹介しましたが、建物の解体を行わなわずに移築をする曳家 (ひきや)の技術で移築しました。

肥料店では農家が収穫したお米を政府の指導の元管理する役割を持っていたそうです。
米の貯蔵を行っていたことから、蔵の中には木の柵が取り付けられています。これは政府指定倉庫の基準により取り付けられています。リニューアルオープン時には取り外しも検討されましたが、歴史を語る一部として残されました。

■合田好道記念室

現在の店舗の最奥にある「合田好道記念室」は2021年までギャラリ一蔵人(くらんど)の名前で展覧会などの会場として使用していました。元々は味噌蔵として敷地内に合った大谷石石蔵を現在の位置に移築しています。こちらは家技法ではなく、大谷石を組み直して移築しています。

梁には天長地久記二千五百九十二年と2代目当主の塚本茂一建立の文字が書かれています。
天長地久記2592年は西暦1932年(昭和7年)に相当します。棟梁は仲野福松とあり、益子の仲野工務店が建築を行っています。

■和室
陶庫の駐車場に面する建物は大正末期に建てられた建築物です。前身である塚本肥料店の店舗として使用されました。
店舗兼住宅となっており、当時の塚本家や番頭さんなどがこの建物で生活をしていました。

1991 →

Art Space Jonaizaka

城内坂に面するガラス張りのキュービックギャラリー「Art Space Jonaizaka」

前身は1983年にオープンした「ギャラリー城内坂」です。陶庫の店内とは異なる空間で展示販売を行っており、オープンの際は益子の表現者「合田好道」の展覧会を開催しました。

その後、1991年に「Art Space Jonaisaka」*としてオープンし、展覧会会場にはお客様が立ち入れない無人のウィンドウギャラリーとなりました。
ギャラリーの前にはノートとペンが置かれ、作品の感想などが自由に綴られました。
基本は陶器作家が展示を行っていましたが、陶器に限らず、木、鉄、布など様々な作家の表現を展示しました。
なかには、土の塊に天井から水滴が垂れることで土が崩れていくという、時間と変化をテーマにした作品も展示されるなど、物理的な展示の枠を超えたアート企画が展開されました。

当時はそのような造形的な表現を行う作家は茨城県笠間で多く活動しており、笠間の作家を中心に展示を行いました。
1991年3月からリニューアルオープンまでの1992年7月までの17ヶ月で32名の作家が展示を行い、そのうち、益子/茂木で活動する作家は9名。笠間で活動する作家は23名でした。

*オープン当初から2000年代は”Jonaisaka"でしたが、現在は”Jonaizaka"の名称となっています。

1995年の陶庫店舗リニューアルに伴い、「Art Space Jonaizaka」の建物は解体され、現在のように店舗の一部となっています。旧
Art Space Jonaizakaを解体する際には、子どもたちに壁面などに自由に絵や文字を書いてもらい、空間自体が唯一無二の作品として幕を閉じました。

リニューアルオープン後の新 Art Space Jonaizakaは益子、笠間の作家を中心に展示をしていたものの、展示を行う作家が徐々に少なくなり、1996年に開催した「井田照一」の展示をきっかけに陶庫が企画を行うようになります。
信楽、常滑、京都などの作家がこの場所で表現を行いました。
2010年代より、Art Space Jonaizakaの場所は展示会場ではない用途として使われましたが、2024年の今成誠一氏による「益子立体曼茶羅」の展示をきっかけに時のコンセプトをそのままにキュービックギャラリーとして復活しています。
展示を行う作家さんをはじめ、ご協力をいただくすべての方々に感謝申し上げます。

最後に Art Space Jonaizakaの監修に携わって頂いたインディペンデントキュレーター萬木康博氏の言葉を抜粋して記載いたします。

"新しい美術館をつくるときに、実際に建物として立ち上がる眼に見える部分よりも、見えない部分、いわゆる土台の部分の基礎工事が、いかに大切かということを、私は何度か痛感させられてきた。
もちろんそれは、実際の施工過程の工事のことを言っているのではない。
その美術館が、どのようにその地域の広範な人々に必要とされながら誕生するのかということと、どのように世界に通用するレベルの活動内容を準備し開館後も持続拡充させていくのかということのために、形成されるべき"人のつながり"のことである。

Art Space Jonaizakaは、城内坂の通りに面した無人のウィンドーギャラリーである。
6坪ほどの、小さい規模の個展にはちょうど手頃な広さである。
この小さな無人ギャラリーを舞台として、オープンから翌年9月までの約1年半に、35の個展が開催された。
出品作家の居住地は、益子、笠間を中心に、その近隣の地域に限定されてきた。
これだけ限定された範囲内に、質の高い作品を生み出す作家たちがこれだけ多く集中していること、私はそのことに驚いた。
しかも作品は、陶や土に必ずしもこだわらない自由さで、それぞれに様々な展開を見せてきた。
海外から勉強に来ている若い人々も何人か登場し、興味深い仕事を見せてくれた。
ギャラリーの前に置いてあるノートには、時に学校帰りの子供たちの感想も書き込まれたりする。
小さい町の小さいギャラリーだが、ここには外界へのひろがりをもったきわめて豊かな人々のつながりが結晶している。”

萬木康博

1986 →

陶庫の展覧会

益子で陶器販売店が立ち並ぶ城内坂。
このエリアにある販売店の多くは、もともと製造を中心に営んでい
窯元が開店した店舗です。
そのなかで、陶庫は窯元ではなく、異業種(肥料店)から陶器販売へと転換しました。
自社で製造機能を持たなかったため、陶庫は陶器作家の作品を展示・販売するギャラリーとしての営業を開始します。
1986年から、約2週間ごとに展覧会を開催し、これまでの50年目で1,000回以上の展覧会を実施してきました。
展示販売会という枠を超え、作家とともに企画を考え、ご来場いただいたお客様に気づきや安らぎを感じていただける空間を目指してきました。

第1回の展覧会は陶庫の企画によるグループ展「四季の葉皿展」です。
葉皿をテーマに陶器作家が様々な角度からテーマを表現する展示となりました。
2024年の秋には創業50周年を記念し、同じテーマでリバイバル企画展を行いました。

展覧会のたびに作成するDM(ダイレクトメール)も1,000種類以上にのぼります。
展覧会のテーマや象徴的な作品をメインビジュアルとし、作家の世界観や意図をカメラマンに伝えて撮影を行います。
過去のDMを振り返ると、作風や素材、表現方法の変遷など、さまざまな発見があります。

陶庫のギャラリーとしての理念は「表現の尊重」です。
売れやすいものだけを展示するのではなく、作家の表現の幅をお客様に感じて頂ける展示を心がけています。
陶庫の展覧会は「表現の尊重」を最も体現する企画です。
創業当初からの「表現の尊重」という考え方は現在でも「陶庫のきほん」として大切にしている理念であり、陶庫のコンセプトである「真の豊かさを模索する」に通じています。

1927 →

陶庫にまつわる
モノやコト

現在地の城内坂に居を構えて約100年。
少しずつ積み上げ、受け継がれてきた陶庫のモノやコトをご紹介します。

■陶庫の看板
陶庫の入口に構える看板。店舗の顔であることから、様々な看板を見て回り参考にしました。
ロゴの文字は益子で活動した表現者「合田好道」氏に書いていただきました。筆で書いても納得した字にならず、最終的には脱脂綿に墨を含ませ書いた字です。
文字の下部の山並みのデザインは「木」「石」「金属」を表し、陶庫の内装デザインにも反映されています。
看板の文字部分は銅の打ち出しとなっており、日光の鈴木錺金具工芸社に依頼しました。
山並みのデザインは陶器で作られています。益子の作家「藤原郁三」氏に制作していただき、
この看板の素材も、コンセプトの「木」「石」「金属」となっています。

■金庫
塚本肥料展時代から使われる金庫。
和室の家屋と同じ年に作られているため、100年以上昔の金庫です。店舗リニューアルで家を行う際はこの金庫の基礎のみ家屋の基礎とは別に設計されていました。
金庫を開けるともう一つの扉があり、その奥には桐の箪笥が備え付けられています。
所ジョージさんの番組企画にある開かずの金庫のオファーを何度か頂きましたが、現在も使用しているため番組の企画になりませんでした。

■什器
陶庫の什器は「木」「石」「鉄」を中心にオリジナルで制作しています。
自然から生まれる器だからこそ、自然の素材の什器に馴染むように設計しています。

■陶歴入れ
陶庫では器を販売した際に作家さんのプロフィールである陶歴を添えています。
陶歴を収納する棚についてお客様にご興味を持っていただくことがございます。
この棚は宇都宮大学の図書館で図書カードの管理で使われていた棚でした。
コンピューターシステムの導入で不要になったものを譲り受け、長年作家さんの陶歴入れとして使用しています。

■ひょうたん池
陶庫の和室からみえる小さな池をひょうたん池と呼んでいます。
俯瞰してみると円ではなく、ひょうたんの形に見えることが由来となっています。(少々無理ある気もしますが。。。)
この池は100%湧き水でできており、100年以上この場所にあります。
池からの水は駐車場横の水路を通り、城内坂入口に流れる百目鬼川(どうめき)に繋がります。
この水路には6月にカキツバタがきれいに咲き、小さな見どころの一つです。

■井戸
ひょうたん池と同じ水源と思われる井戸が城内坂に面した場所にあります。
元々敷地内には3つの井戸がありました。昔は水道が軽備されていなかったこともあり、この井戸が生活を支えていました。

■けやき
陶庫のシンボルの一つでもある欅の木。
けやきの根の位置が城内坂よりも高いことからとても大きく見えます。

このけやきは大正天皇即位の際に城内坂の両側に植えられてと伝えられており、隣の日下田藍染工房と観音寺にまたがってけやきが植えられています。
1995都市計画の際に緑道が設計された経緯があり、陶庫の敷地のなかに町の緑道が通ることとなりました。
その緑道が陶庫とけやきを分断するため、けやきを町に寄付することが検討されましたが、伐採の可能性もあったことから、けやきのある土地に飛び地で住所を付定しました。陶庫は城内坂2番地。けやきは城内坂8番地です。

■商家の植物
昔の商家には「カリン」「カシ」「シュロ」の木を縁起を担ぐ意味で植えたそうです。「カリン」は金は貸すが、借りん。「カシ」は貸しを作る。「シュロ」は城を築く。それとは反対に「桐(キリ)」はキリがないことから植えない風習があったそうです。
塚本肥料店時代からこれらの木は敷地内に植えられており、リニューアルオープンをする際には庭を再設計し、全て移植を行いました。

1927 →

陶庫の和室

陶庫の和室がある建物は築100年を迎えた大正期の日本建築です。
約60坪の床面積の建物には「和室」「和室ギャラリー」「NIKAI」のエリアが広がります。
元々、前身である塚本肥料店の店舗であったこの建物は塚本家や番頭さんが生活していたことから商家の構造で建てられています。

■和室ギャラリー
エントランスから繋がる「和室ギャラリー」は工芸作家の展覧会や陶器の展示などを行っています。昔の金庫や階段単のある空間は、元々は店舗入口の土間として、肥料を販売していました。

■和室
和室ギャラリーから上がると8畳2間の空間と縁側が広がり、現代ではどこか懐かしさを感じます。益子では夏に益子祗園祭が開催されます。祇園祭の歴史は古く、1705年頃から行われている益子の祭りです。羽織袴の男衆が大酒を飲む「御神酒頂戴式」は関東三大
奇祭の一つにも数えられます。当番町の当家で行われる御神酒頂戴
式は1938年、1980年、2011年、2023年の4回がこの和室で執り行われました。

■NIKAI
和室ギャラリーの階段をあがると、「NIKAI」が広がります。
このスペースでは金継ぎ教室や生花のワークショップ、茶会など陶庫主催のイベントを中心に利用しています。現代の住まいとは異なる趣があり、落ち着いた雰囲気の中で特別な体験をお楽しみ頂けます。

2024 →

次の50年に向けて

陶庫は、器を売る場所ではなく、つくり手の表現と、使い手の暮らしが出会う「場」として歩んできました。

時代や価値観が変わっても、手でつくられたものが持つ力、人の営みの中で育つ美しさは、これからも変わりません。

これからの50年も、益子という土地に根を張りながら、つくり手の表現を尊重し、使い手の感性と向き合い、人が人らしく生きるための道具と時間を届けていきます。

変わることを恐れず、変えてはいけないものを見失わずに。
陶庫は、次の世代へとこの場をつないでいきます。