型染作家の下平清人(しもだいら きよと)先生は、1936年、長野県に生まれました。19歳で芹沢銈介のもとに入り、23年間、型絵染の仕事に携わります。図案を描き、型を彫り、糊を置き、色を挿す。ご自身の作品は、そのすべての工程を自らの手で手がけています。
陶庫では、2010年の「下平清人赤絵展」をはじめ、先生の展覧会を重ねてきました。
本稿は、2022年12月に工房を訪ねた際の写真に、2026年夏にふたたび工房でうかがったお話と、2021年11月に陶庫で開いたお話し会「懐古談」でのお言葉を重ねてまとめたものです。
光の入る、長い板場
工房は、横に長い木造の建物です。中に入ると、奥までまっすぐに板場が延び、張られた反物の上に竹の伸子(しんし)が弓なりに並んでいました。天井近くには染めの途中の布が吊られ、窓からは冬のやわらかな日が差し込みます。
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工房の外観 -
板場に張られた反物。伸子で布の幅を保ちます
芹沢銈介のもとで
先生が染めの世界に入ったのは、思いがけないきっかけからでした。上京したその日、川で反物を洗う職人たちの姿を、土手から日が暮れるまで眺めていたところ、職人風の親方に「うちに来い」と声をかけられたのだそうです。
やがて芹沢銈介の型染カレンダーにアメリカから大量の注文が入り、若い染め手たちが集められて染め上げました。その仕事ぶりが芹沢の目にとまり、「うちの仕事を手伝ってもらえないか」と声がかかります。19歳のときでした。

芹沢の工房では、型紙は芹沢自身が彫り、「ここはこういう色に」と指示を出します。その指示を受けて色をつくり、布を染めたのが先生でした。作品を染める仕事場は土間にあり、そこに入ることを許されていたのは先生だけだったといいます。靴を脱いで上がる板間では、弟子たちがカレンダーなど紙の仕事をしていましたが、芹沢の布の作品を手掛けられるのは先生一人でした。
礼儀にはとても厳しい先生だったといいます。日本民藝館で柳宗悦に引き合わされたとき、芹沢は先生を「うちの使用人の下平です」と紹介しました。自分は使用人なのだから、玄関から出入りしてはいけなかったのだ。そう気づいたのはそのときだった、と先生は笑って振り返ります。
はじめての益子
益子との縁も、芹沢のもとで始まりました。昭和34年(1959年)、芹沢の使いで届け物を持ち、初めて濱田庄司の家を訪ねます。「砂利の、でこぼこの道でした」。帰ってから、用事のあとに寄り道をしたことを話すと、ひどく叱られたそうです。「使いで行ったのなら、終わったらまっすぐ帰ってくる。よそを訪ねるなら、紹介状を書かなければならない」。
型染ができるまで
工房では、仕事の流れをひととおり見せていただきました。作品によって手順は変わりますが、おおまかな流れを写真でたどります。
01図案を描き、型を彫る
すべての始まりは図案です。筆で模様を描き、それを型紙に写して、小刀で彫り抜いていきます。線の幅が途中で変わると、型を送ったときに柄がつながらなくなるため、同じ幅で彫り続けなければなりません。何枚もの型紙を彫り分けて染めた振袖を前に、先生は「僕の仕事のなかで、これがいちばん手間がかかっている」と話してくださいました。
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筆で図案を描く -
型紙を小刀で彫る

02糊を置く
練った糊を用意し、布の上に型紙を置いて、へらで糊を引いていきます。型紙を外すと、彫り抜いたところにだけ糊が残ります。糊を置いたところは、あとで染めても色が入らず白く残る。これが型染のかなめです。
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練った糊 -
型紙の上から糊を置く -
布に型紙を置く -
型紙を外すと、模様の形に糊が残ります
03伸子を張り、色を挿す
糊が乾いたら、布を板場に張り、竹の伸子で幅を保ちます。そこへ筆で色を挿していきます。
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板場に張った布を整える -
竹の伸子

色を布に定着させるのに、先生は大豆を絞った豆汁(ごじる)を使います。「豆汁はたんぱく質だから、夕方にはもう傷んでしまう」。つくり置きができないため、まったく同じ色は二度とつくれません。樹脂で色を定着させる方法なら、いつでも同じ色が出せる。けれど「我々のは山勘だから」と、先生は笑います。
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色を溶いた器 -
板場で色を挿す
04地を染める
模様の部分に糊を伏せてから、刷毛で地の色を引きます。壁には、用途を書き入れた大小の刷毛がずらりと掛けられていました。
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刷毛で地色を引く -
壁に掛けられた刷毛
05水で糊を落とす
染め終えた布は、水槽で糊を洗い落とします(水元)。茶色く濁った水の中から、糊の下で守られていた色と模様が少しずつ姿を現します。工房でいちばん息をのんだ瞬間でした。
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糊の下から模様が現れる -
布を洗う下平先生
06仕上がり
乾かした布には、四角や渦を組み合わせた模様が、はっきりと浮かび上がりました。

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朱の地に染め上がった布 -
棚に重ねられた型紙
先生に教わった、藍のはなし
工房では、藍についても教えていただきました。「藍は水に溶けないんです」。
藍の色のもとは水に溶けないため、アルカリの液の中で発酵させて溶ける状態にし(還元)、そこへ布を浸けます。引き上げて空気に触れると、酸素と結びついて青が現れる(酸化)。色の粒は繊維のすき間に入り込んでいるだけなので、洗ううちに少しずつ落ちていきます。
糸のうちに何度も浸けては絞り、叩いて染み込ませる織物の藍と、糊を置いた布を染める藍とでは、色の持ちが違うのだそうです。
手毬と、母の思い
手毬は、先生がくり返し染めてきた模様のひとつです。先生のふるさとでは、嫁入りのときに手毬を持たせる習わしがあり、お母様も手毬をつくっていたといいます。

何十年も前に手がけた、白地に手毬を染めた着物が、最近になって先生のもとへ戻ってきました。持ち主の方から「娘も大きくなって、もう着られない。けれど手放すのは忍びない」という手紙が添えられていたそうです。
ご自身の作品のなかで思い入れのあるものを尋ねると、先生はこの着物を指して「これは、母親の思いが手毬にあるから」と話してくださいました。
民藝という言葉
芹沢の工房にいたころ、先生は日本民藝館の展示替えも手伝いました。ようやく並べ終えてほっとしていると、通りかかった柳宗悦が「芹沢君、もっといいのがあるよ」と一言。あわてて倉庫へ走り、あれか、これかと探し出して並べ直すと、帰りがけに「あっただろう」と声をかけられたそうです。

民藝は、柳宗悦らが「民衆的工芸」を縮めてつくった言葉です。先生は、柳が「民藝という言葉をつくった時点で、民藝は終わった」と語っていたことを、くり返し話してくださいました。名もない人が暮らしのためにつくったものが民藝であり、作り手が名前を出すようになれば、それはもう民藝とは言い切れない、という意味です。
一方で、昔の暮らしの道具に美しさを見いだし、日本人がそれを見直すきっかけをつくったことこそが柳の仕事だった、とも語ります。言葉だけが一人歩きして、「民藝風」の喫茶店や土産物に使われていくことには、はっきりと首を振りました。
名前があってもなくても、みんなが喜んで使えるもの。それで生活できれば、それがいちばんいい。民藝なんて言葉はいらないと思うんだけどね。
下平清人
そして、こうも付け加えました。「民藝という言葉には、あまりこだわっていない。けれど、民藝の中で育ったことは事実だね」。
陶庫での展覧会
陶庫では、2010年の「下平清人赤絵展」をはじめ、先生の仕事を折にふれてご紹介してきました。近年は2021年から3年続けて展覧会を開き、大正期の建物の和室や窓辺に、着物や屏風、暖簾、そして型紙そのものを並べました。
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暖簾(2021年) -
和室に掛けた着物(2021年) -
花器を描いた屏風(2021年) -
草花と流水を染めた作品(2021年)

「いろは」の模様について、先生は「本当は『色は匂へど』なんだよ」と話します。
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窓辺に掛けた型紙(2023年) -
郷土玩具を染めた作品(2023年) -
和室の展示風景(2023年) -
草花を染めた作品(2023年)
若いつくり手へ
2021年11月、展覧会にあわせて、陶庫でお話し会「懐古談」を開きました。益子のつくり手をはじめ、多くの方にお集まりいただいた会の終わりに、先生はこう語りかけました。
名前なんか残らなくていいから、物が残るような仕事をしてほしい。
下平清人
19歳でこの道に入ってから、一度も嫌になったことはないといいます。「いいとか悪いとかじゃなくて、その仕事が好きであることが第一条件だと思う」。
そして、益子のこれからにも言葉を寄せてくださいました。「今までの益子のままではなく、益子らしい益子を、若い人たちがみんなで考えていってほしい」。
懐古談のお話は、懐古談「下平清人」にくわしくまとめています。

下平先生の作品
下平先生の作品は陶庫で扱っております。
※本稿のお話は、先生の記憶をもとにうかがったものです。工房の写真は2022年12月、展覧会の写真は2021年と2023年に陶庫で撮影しました。
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