2021年11月13日、陶庫で開いた「下平展」の初日に、型染作家・下平清人(しもだいら きよと)先生のお話し会「懐古談」を開きました。ものづくりの昔の考え方や、その時代の生き方を若い人たちにも伝えたい、という先生のお気持ちから実現した会です。
- 日時
- 2021年11月13日(土)14:00〜
- 会場
- 陶庫 和室
ここからは、当日の録音をもとに、先生ご自身の語り口でお届けします。読みやすいように言葉を整え、話の順番を入れ替えたところがあります。会場の方とのやりとりは、そのまま残しました。
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懐古談の会場(陶庫 和室・2021年11月13日) -
先生の背にあった、花器を描いた屏風
先生の歩み
- 昭和11年 2月、長野県に生まれる(1936年)
- 昭和20年まで 戦争の中で育つ。玉音放送は川のそばの岩の上で聞いた
- 19歳 染めの道に入る。上京した日、落合川の土手で声をかけられたのが始まり
- 23年間 芹沢銈介のもとで働く。一度も玄関から入れてもらえなかった
- 昭和34年 芹沢の使いで、はじめて益子の濱田庄司の家へ(1959年)
- 2021年 11月13日(土)、陶庫で「下平展」。初日に陶庫の和室で懐古談
長野の山あいで
皆さん、こんなにお集まりいただいて、ほっとしています。僕は長野県の生まれなんです。片田舎で、後ろが中央アルプス、前には南アルプスの一番初めの北岳が見えるところ。本当に貧しい時代の、貧しいところで育ちました。
だから、食べることに限っては非常に貪欲でね。未だに人の三倍ぐらい食べないと気が済まないって、みんなに笑われるんです。でも、それもそういう時代の生き方だったんだから、仕方がない。そのおかげで、未だにこうやって健康でいられますからね。
昭和11年の2月の生まれです。それから昭和20年まで、ほとんど戦争の中で育ってきました。勉強なんて、ほとんどする暇がない。防空壕を掘ったり、食べるための芋をつくったり。男手は全部兵隊で、近所は女の人ばっかりでした。
ちっちゃいときから牛や馬を使って田んぼの仕事をして、米俵を編んだり、縄をなったり。田植えから始まって収穫まで、何でもやりました。中学の2、3年のころには、俵を担げるぐらいの力持ちでしたよ。それぐらいじゃないと、生きていけない時代だったんです。

兄が僕より二十四も上だったもんで、姪だの甥だのの中で育ちました。だから父親や母親を「お父さん」「お母さん」と呼んだことがなくて、じいちゃん、ばあちゃんで育ったんです。
玉音放送を聞いたのは、林があって、川があって、そこの岩の上でした。敗戦というのがどういうことかすら、分からない時代でした。
落合川の土手で
田舎からは、姉の縁で、東京の明治大学で工芸の教授をしていた叔父を頼って上京しました。高田馬場で降りて、早稲田の方へ流れていく落合川という川があるんです。そこで、友禅を川で洗っていた。その風景を、朝、東京に着いてから夕方まで、土手に寝っ転がってずっと見ていました。
夕方になったら、職人風の親父さんに「兄ちゃん、家出か」と言われてね。「はい、そうです」と答えたら、「俺んちに来い」。何にも食べてなくて、お腹がすいていたから、喜んでついていったら、それが染め物屋だったんです。
全然思ってもいなかったところから、染め物が始まったんです。
下平清人

一万部のカレンダー
その染め物の仲間に、芹沢先生を中心にした工芸の仲間の会があって、僕の先生もその中にいたんです。ある日、先生から「手伝いに行ってもらいたい」と言われました。何ですかと聞いたら、カレンダーなんですよ。皆さんご存知かな、芹沢先生の和紙のカレンダー。あれに、アメリカから一万部の注文が入った。
アメリカへ持っていった人がね、手で染めたカレンダーだとは思わないで、印刷だと思って持っていったんですよ。それで一万部、簡単に受けてしまった。でも、向こうは契約の国だから、一万部やらなきゃならない。それで、仲間のところにいた若い者たちが集められて、何人も集まって、やっと一万部を作り上げたんです。
そうしたら最後に、芹沢先生から「下平君、僕の家の仕事を手伝ってもらえないか」と言われましてね。夜中に僕の先生のところへ帰って、こんなお話をいただきましたと言ったら、「もう明日の朝から行け」って、追い出されました。

「うちの使用人の下平です」
その日、たまたま玄関から入ったんですよ。そうしたら、すごい勢いで叱られましてね。前の日までは玄関から入っていたのに。意味が分からなかった。
それが分かったのは、民藝館で柳先生にお会いしたときです。「挨拶しなさい」と言われて先生についていったら、柳先生に僕を紹介するのに、「うちの使用人の下平です」と、こう言われた。ああ、そうか、僕は使用人なんだ。だから玄関から入るんじゃないんだ、と。そのとき初めて気がつきました。
それから23年、一度も玄関から入れてもらえなかった。そういうことには厳しい先生でした。
下平清人
染め物は、売れなかった
民藝館へ行くのも大変でした。蒲田から渋谷で乗り換えて行くんだけど、その電車賃がないんです。朝、大きな風呂敷に本を五冊ぐらい包んで担いで、神田の駅前の本屋さんへ持っていくと、ご主人が電車賃を封筒に入れてくれる。帰りに民藝館で日当をもらって、またその本を持って帰ってくるんです。重くて重くて。先生は背が高いから、風呂敷包みを担いで、走ってついていかなきゃならない。
それぐらい、染め物というのは売れなかった。人間国宝になっても売れなかったんです。今、静岡に芹沢の美術館がありますけど、僕がお手伝いしたものは、ほとんどあそこに残っています。
はじめての益子
僕が一番初めにこの益子へ来たのは、昭和34年です。芹沢先生のお使いで、濱田先生のお宅へ届け物を持ってきました。この通りも砂利で、でこぼこの道でね。
濱田先生が手紙を書いて、これを芹沢に渡してくれと。それで帰ればよかったんですけど、お隣に有名な先生がいたでしょう。ちょっと寄り道をして、帰って黙っていればよかったのに、寄らせてもらいましたと言ったら、ものすごく怒られた。1週間、仕事を入れてもらえませんでした。
先生のお使いで行ったんだから、終わったら帰ってくる。そこへ行くのなら、ちゃんと紹介状を書かなきゃならないのに、突然行くのは失礼だ、と。そういうことには、ものすごく厳しい先生でした。
民藝館の奥の部屋
民藝館の陳列替えの手伝いにも、よく行きました。やっとの思いで陳列が終わって、ほっとしていたら、奥の書斎にいらした柳先生が出てきて、横を向いて「もっといいのあるよ」って、こう言うんです。
その一言で、もう藁くずの中を、これかな、あれかなと探して、「これだろう」と持ってきて並べ直した。そうしたら帰りに通りかかって、「ああ、あっただろう」って。柳先生の前に行くと、みんな固くなりましたよ。優しいけど、怖い先生でしたね。

陳列が終わると、次の間にコの字にテーブルが並んでいて、そこに濱田庄司先生、河井寛次郎先生、佐藤春夫さん、川端康成さん、志賀直哉さんといった方々が、ずらっと座るんです。もう教科書に出てくるような人ばっかり。一番末席が棟方志功さんで、そっちの端が芹沢先生。座る場所は決まっていました。
白樺派の人たちだから、みんな呼び捨てなんですよ。柳、濱田、ってね。だけど芹沢先生だけは、「芹沢君」と呼ばれていた。
僕らにしてみたらすごい先生なんだけど、そこへ行ったら「君」と呼ばれる。人間の大きさというのは、こんなに違うものかと、つくづく思いました。
下平清人
棟方志功と、濱田先生の審査
棟方さんが有名になった話、聞いたことありますか。国画会の展覧会です。落選した作品は、廊下に伏せて置いてあったんです。そこを、たまたまお手洗いに行く濱田先生が通った。棟方さんの作品が、こっちを向いて見えていたんだね。
濱田先生が「これは何だ」と聞いたら、落選だと。これを落選にするのはしのびない、と言って、目黒の柳先生のお宅に電話をした。柳先生がすぐに来て、二人の推薦があれば入選できるから、二人で推薦して、賞もついた。それが始まりです。
こっちを向いていたばっかりに。そこをまた、濱田先生が通ったばっかりに、ですよ。柳先生は、ほとんど棟方志功を育てたようなものです。
審査は、育てるもの
濱田先生の審査は、本当に素晴らしかった。並べてある作品を、端からひっくり返しながら見ていくでしょう。誰かが「先生、それはみんな落選ですよ」と言ったら、「こんなものを落選にするのはもったいないじゃないか。今はこうかもしれないけど、この子の可能性を見たら、賞を与えるべきだ」って。そうして拾われて、賞をもらって、立派になっている人がいますよ。
審査というのは、良い悪いで落とすんじゃない。育てるものなんです。
下平清人
僕も何年か審査をしましたけど、審査というのは本当に難しい。顔が見えると、余計にやりにくいんです。仲間だったりすると、なおさら落としにくい。

民藝という言葉
民藝という言葉は、濱田先生と柳先生がお作りになりましたよね。どういう意味だか分かりますか。
会場民衆的工芸です。
おお、素晴らしい。民衆的工芸を詰めて、民藝という言葉を作ったんです。でも、その後がすごいんですよ。柳先生がおっしゃるには、民藝という言葉を作った時点で、民藝は終わりだ、と。どういう意味だか分かりますか。
民衆的工藝
「民衆的工芸」を詰めて「民藝」
民藝というのは、名のない人の作ったもの。それが民衆的工芸なんです。先生たちが民藝と名付けて運動が始まったときには、もうみんな、それぞれ自分の名前でものを出すようになっていた。個人の作家が生まれて、作者の名前でものが出るようになったら、民藝とは言い切れないわけです。柳先生は、そのことを明確におっしゃっていました。
民藝品とか民藝風というと、古びた喫茶店とか、お土産屋にぶら下がっている藁のケラなんかを思い浮かべるでしょう。あれは民藝品じゃなくて、あくまでもお土産品ですよね。
有名なお茶碗がありますよね。誰が作ったか分かりますか。
会場喜左衛門ですか。
ええ。誰が作ったか分からないでしょう。あれは朝鮮の、朝のお粥を食べるお茶碗なんですよ。千利休がそれを見てお茶碗に使い始めたから、残っているだけなんです。もともとは日常で使っていたお茶碗。そういうものは、確かに民藝品と言ってもいいかもしれない。そこら辺の思い違いを、若い人たちは今一度考えなきゃいけないと思います。
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郷土玩具を描いた屏風(2021年「下平展」より) -
箪笥と郷土玩具を描いた額(2021年「下平展」より)
今の時代の民藝とは
会場民藝という言葉が、僕たちの世代でまた盛り上がっています。先生から見て、今の時代の民藝はどういうものでしょうか。
名前があってもなくても、みんなが喜んで使えるもの。それで生活できれば、それがいちばんいい。民藝なんて言葉はいらないと思うんだけどね。
下平清人
民藝派、と言われる言葉があるでしょう。あの人は民藝派だ、なんて。芹沢先生は、それが大嫌いでした。民藝という言葉も、使い方によっては嫌がられるし、解釈の仕方なんです。
あなたがおっしゃるように、改めて民藝ということを中心に仕事をしていくのなら、自分の名前は捨てるべき。名前なんかなくたっていいんじゃないですか。そのうちにみんなが認めて、あなたのものを見て、ああ、あなたのものだと分かるようになれば、それがいちばんいいんじゃないですか。
藍と刺し子のはなし
染料と顔料の違いは、皆さんご存知じゃないと思うけど。水に溶けて、きれいに染まるのが染料です。じゃあ、藍は今、水に溶けますか。
藍染め工房の方溶けないですね。我々は、水に溶かすために、発酵という作用を加えて。
還元するわけですね。
藍染め工房の方おっしゃる通りです。
還元しないと、インジゴは水に溶けないんです。だから藍は、本当は染料じゃない。顔料なんです。還元したものに布を入れて、あげて、酸素で色が出る。みんな染まったと思っているけれど、染まっていないの。粒子が挟まっているだけ。だから藍は、洗っているうちに色が取れていくんですよ。
- 01 藍は水に溶けない 藍の色のもと(インジゴ)は、そのままでは水に溶けません。
- 02 発酵させて溶かす 発酵させて、水に溶ける状態にします(還元)。
- 03 布を入れて、あげる 還元した藍に布を入れて、引き上げます。
- 04 酸素で色が出る 空気の酸素に触れて、藍の色が出ます(酸化)。
ただ、糸で染める織物のものは、中まで色を含むから、我々みたいに糊をつけて藍に入れるのとは、丈夫さが違いますけどね。

藍甕が四つ並ぶわけ
藍甕が四つ並んでいますけど、四つになる前はどうしていたか、分かりますか。
藍染め工房の方四つの真ん中に火床があって、火を入れています。四つで一坪と言って、同じ状態の藍を四つ一度に立てるんです。
その前があるんですよ。昔は冷やし染めという染め方があって、桶で藍を立てたんです。そうすると、温度が上がらないと藍が立ってこないから、染められる時期が限られていた。それで、藍が足りなかったんです。そこで大阪のある染物屋さんが、四つ作って、その間に火を入れて温度を保つことを思いついた。それが今の藍の始まりなんです。
藍染め工房の方木綿が暮らしの中心になってから、藍染めの紺屋が、どんな村にも町にもできたんです。
刺し子とは
皆さん、刺し子ってご存知ですか。何をもって刺し子というか、分かりますか。
店長古くなった布を、補強のために糸で刺して強くした布、でしょうか。
100点満点のうちの30点ぐらいです。日本で一番先に入ってきたのは、木綿より先に麻なんですよ。暖かいところはいいんだけど、東北なんかは寒いでしょう。麻の着物一枚じゃ、寒くて着ていられない。それで麻を二枚合わせて、木綿で縫い合わせた。それを刺し子というんです。今の、白い糸でこうやって刺したのは、本当の刺し子じゃないんですよ。
何でも、生活の中から生まれているんです。焼き物だって、生活の中から生まれなくちゃいけない。
下平清人

若い人たちへ
焼き物をやっている方たちのものは、どなたのものもみんな好きです。陶庫さんとのご縁で知り合った先生方がいらっしゃるけど、大好きですね。なぜかというと、下手くそなの。上手に作ろうというのは、意識すればできますよね。でも、下手くそに作るというのは、意識してはできないんです。
評価というのは、他人がするものです。地味なものを一生懸命作って、自分のものを作って、初めて周りが評価してくれる。作っているから作家だなんて、そんな思い違いをしたら、いいものはできないです。
憧れで終わってしまったら、つまらないでしょう。これからの若い人たちには、貧乏してでも何してでも、自分のやりたいことをやってもらいたいんです。
名前なんか残らなくていいから、物が残るような仕事をしてほしい。
下平清人
立派な先輩は、益子にもたくさんいらっしゃるから、一生懸命勉強して、新しい益子をね。今までの益子のままじゃ、ただの益子で終わってしまう。益子らしい益子を、若い人たちが考えていけるように、みんなで考えていかないと。
僕は19歳で入って今日まで、この仕事が嫌になったことは一度もないです。いいとか悪いとかじゃなくて、その仕事が好きであるということが、第一条件だと僕は思います。
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手毬を描いた額(2021年「下平展」より) -
会場の和室の展示(2021年「下平展」より)
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